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Minetroper

「ミネトロパー」が創る21世紀

1. 理想

 本章では、我々が考える理想を、 という流れで説明する。

1.1. 我々が目指す社会

 現在の世界情勢を俯瞰すると、世界中の人々の間に現状に対する不満がたまり、将来への不満が渦巻いている状態といえよう。国際政治、国内政治、経済システム、テクノロジー、エネルギー、人口、自然環境、文化、資源などあらゆる角度から見ても、社会システムが持続可能なシステムであるとはいえず、それにより多くの人が将来に対する不安を抱えている状態であり、また、その反動で退廃的な思想が生まれ人心が荒廃している、そんな状況である。

 私は、多くの人が同じような不満を持ちながら、それがさらに悪化する方向に進んでいるのは、根本的な問題を解決し世の中を良くしようと挑戦する人が生まれる環境が整っていないからであると考えている。

 そこで、我々は、「挑戦した人、貢献した人が報われる社会を創る」ことを目標としている。また、それは同時に、芸術、秩序、気高さ、生産性、共感のある社会の実現でもあると考えている。すなわち、持続可能な社会を創るという枠組みの中で、人が自身の可能性を追求できる社会である。

 昨今の日本の社会的問題を一つ一つ分析していくと、社会的問題の多くがゲーム理論の「囚人のジレンマ的(*1)」な要因を内在しており、挑戦した人、貢献した人が手の内を明かしたことで損をするケースが多くみられる。このような構造的な問題を取り除くのが一つの命題になる。

 次節では、我々の目指す社会に必要とされる人物像について述べよう。

1.2. 我々が求める人物像:ミネトロパー

 我々が考える、構造的な問題を取り除くための理想的な人物像を一言で言うならば「ミネトロパー(minentroper)」である。

 ミネトロパーとは「person who minimize entropy」という意味の我々の造語である。エントロピー(entropy)とは、混沌さ(caos)をあらわす一つの指標であるが、平たく言えば、「混沌さを減少させる人」である。エントロピーとはエネルギーを与えて制御しなければ増大する性質を持つものである。ちなみに、これをエントロピー増大則という。もし、文明におけるエントロピーが増大し続けると、アノミー、カオスとなり最終的に文明が崩壊する。これは、「万人の万人による闘争状態(*2)」とも言われる状態であり、また、人々が私利私欲のために自然から資源を略奪し尽くし自然が荒れ放題になる状態である。つまり、文明の維持のためにはエントロピーを減少させる必要がある。

 すなわち、ミネトロパーにとって、その論点と方向性が(社会全体の)エントロピーを縮小させるのか?ということが本質的な答えということになる。よく「社会全体」のためいうと偽善ととられるが、「情けは人の為ならず」、という言葉があるように、これは偽善とは異なるものである。

 一般に、エントロピーを縮小させるにはエネルギーが必要となるが、そのエネルギーの源泉は、ある時には、情報力であり、軍事力、経済力であり、人間の芯の強さである。そして、されにそれらのエネルギーの源泉を考えていくと、太陽のエネルギーと、原子力エネルギーであるといえよう。なお、私は、核のごみの廃棄が考えられていない原子力エネルギーに持続性があるとは思わないので、最終的には、文明は太陽由来のエネルギーから成立させるべきという考えである。

 このような考察に基づき、下記3つの理由により、我々は、日本民族だけでなく、人類全体、自然環境を含めた持続可能な社会を目指す人がミネトロパーだと定義する。

  • 太陽エネルギーを最も効率よく文明を維持するエネルギーに変換してくれるのが自然であり、近代文明はいまだそれ以上の効率的な手段を持たない
  • イースター島をはじめとして多くの文明が木を切りすぎて滅んだ
  • 私自身、人は自然に生かされているという考えを持つ

 我々の考えるミネトロパーは無駄な争いを好まない人である。語弊を防ぐために補足するが、それは全く争わないという意味ではなく、誰も得をしないような争いをしないという意味である。それは、争いは一般にエントロピーを上昇させるだけで、根本原因の解決を遅らせからである。例えば、いつも「あいつが悪いこいつが悪い」という主張をしている人で成功者をみたことがないが、一方で「金持ち喧嘩せず」ということわざにあるように、ミネトロパーの素質を持った人が金持ちにもなりやすかったということなのだろう。

 ただ、囚人のジレンマのような状況においては争いを仕掛けたものが得をするケースが多い。そのような社会はエントロピーを増大させるだけなので、争い好きとは接点を持たないよう、両者を分離することが肝要であると考える。

 このように考えると、信頼できる集団と信頼できない集団が分離する仕組みを作るのが重要であるとも言えよう。ここで「分離」の意味は、人間関係の意味だけでなく、経済活動の分離、精神の分離など色々な意味がある。例えば、金融機関が関わりたくない人間をブラックリストに入れて排除するのも分離である。

 このようにすると、ポジティブフィードバックのクラスターと、ネガティブフィードバックのクラスターに分離する。水と油のように。信頼できる同士、すなわち、ミネトロパー同士は争わず、信頼できない同士は勝手に潰しあうのである。それにより自然に秩序だった階層構造が生まれるのである。
 また、現在は世界の社会システムの変革期であり、世界の社会構造が大きく変われば、変化を拒絶する者はパイがどんどん小さくなって少ないパイの奪い合いになる。逆にニッチな新しい市場を自ら開拓する人にとっては互いに奪い合う理由もないし、信頼しあい協力することでスケールメリットも生じるため、益々差がつくのである。

 このように言うと、しばし絵空事、妄想と一蹴されるが、長い歴史を見れば、世の中が混乱に傾いたときには混乱の拡大が加速し、最終的に、低エントロピーの層と高エントロピーの層に分離されるということが常に起きている。分離されるのが誰なのか、消滅する国家・文化、繁栄する国家・文化はどこなのか、という結果が異なるだけである、と私は思う。

 平たくまとめると、ミネトロパーが他人に邪魔をされず、また、時にはチームを組んで挑戦できる土台作りが必要、ということになる。

1.3. 社会を形成するミネトロパー

 現在の国内の政治は、国民が自分自身の頭で国家のあるべき姿を熟慮して政治家が選ばれているとはとても言えず、言葉が悪いが、衆愚政治としか言いようが無い状態である。例えば故中川金融大臣のように国益を考えている政治家が簡単に失脚してしまうのである。そして、国益は無視され続け、我々の税金は海外に流出し放題である。日本には国家や国家間におけるエントロピーを縮小する人や組織が必要と言えよう。そのような人をここでは『国家ミネトロパー』と呼ぶことにしよう。

 長らく日本は米国の属国としてきたが、ドル基軸体制に持続性継続性が無い以上、今後、日本は独立国としてのアンディティティを持つ必要がある。国家ミネトロパーの形成や強権が必要となる時がくる。

 では、どうやってまともな国家ミネトロパーを形成するか。不適切な人が実権を握って、衆愚政治から専制政治になってしまっては元も子もない。体制批判から入れば人は集まりやすいが、ルサンチマンが集まり実行性に疑義が生じるし、強権をもった組織作りを目指せば権力欲の強い人が集まり腐敗する。私は、江戸時代の『学び』によるエリート選抜機構や、戦国時代の『お茶の間』といった伝統にその答えがあると考えている。

 ちなみに戦国時代に国家ミネトロパーを養成したのはお茶の間である。千利休などの有名な茶人が生まれたのがこの時期で、信長、秀吉、家康といった時代を創った主要な大名は千利休の茶や禅を嗜んでいたのである。また、豊臣秀吉は戦をせずに勝つ天才だったし、戦上手より戦回避上手が天下を取ったことからみても、ミネトロパーの素養がある大名が残ったのである。

 また、日本は歴史的に変革の時には、足利義満、織田信長、徳川家康、大久保利通というように、ワンマンタイプのリーダーが牽引していることから、国家ミネトロパーは少数精鋭であってもよいが、確実な実行力が求められる、と言えよう。私の子供の頃、私の父の口癖が「実行なき知識はゼロ」だったが、ミネトロパーも躊躇することなく、形の見えるかたちで実行していくことが重要なのである。

 以上の考察から、私は、このような社会を形成する国家ミネトロパーを生み出すには、日本の伝統に基づく温故知新をした価値観を提示し、評価団体を作り、知性が認められた人しか参加できない排他的な会員制クラブを作り、国際的なイベントを開催し、国際的かつ体系的なシステムを構築する、といったことが必要だと考えている。本稿もそのような目的で書いている。

1.4. 我々が考える理想的な社会構造:分散型社会

 さて、ここまでミネトロパーについて書いてきたが、仮にこういう層が形成されたとしても共通のコンセンサスが無ければ、ミネトロパー同士で見解がまとまることはないであろう。そこで、コンセンサスともいえる、理想的な社会構造について述べよう。

 現代の社会的な様々な大きな問題をブレークダウンしていくと、その多くがフラクタル構造をもった分散型の構造に帰結する。フラクタルとは、巨視的にみても、微視的にみても、同じ構造となるものである。フラクタル構造の問題は細かく分離してもまたフラクタル構造を持ち、このようなフラクタル構造の問題を要素還元主義的に細かい問題に分けて考えても、その問題は全く解決しないばかりか、同じ問題が複数に跨って発生するだけで、リソースをいたずらに分散させて問題を悪化させてしまう。このような問題は根本解決をしなければ、時間と共に、エントロピーを増大させる厄介な問題である。

 この種の問題を解決するには、体系化し構造的に解決する必要がある。数学的な表現をすれば、適切なトポロジーを設定して構造を改良するのである。また、局所的にみえる変化を社会現象にまで昇華させるには、解法に「感染性」、「相似性」が必要になる。例えば、誰かが争わず挑戦して成功すれば私も挑戦するとなるのが「感染性」、争う人争わない人のクラスター内でも分離が起き構造化がなされるのが「相似性」である。ちなみに、一般的に低俗やネガティブな感情の方が感染性が高いが、ミネトロパーにはそのようなものに流されない強さが必要である。ビジネスでいえばフランチャイズやクラウドが、トポロジーに相当するモデルであり、爆発的に「感染」するような状況をTipping pointを超えるという。

 実際、現在の世の中を観察すると、ビジネス、経済、軍事、サーバ、あらゆるシステムが分散型に向かっており、その中で本質的に任意の閉じた系における体系化が重要であることがわかる。また、そのプロセスはエントロピー最小化である。今は面白い時代である。ネットインフラの充実や開発技術の成熟化で誰でも簡単に分散的にサービスを立ち上げられるし、改善すべき問題もあちこちに転がっている。これをもっとシステム的にやることが、我々ミネトロパーに求められる。

1.5. ミネトロパー社会を創る「学び」

 最近の日本人は自分だけの意見を持つということが苦手なようにみえる。しばし、外国の方に、哲学・教養が無いというように揶揄される。私はそれは暗記詰め込み教育の弊害であると考えている。本来教育により獲得すべきものは、思考力、モラル、哲学・教養であるが、以下、これらについて順に論じていこう。

 思考力について、アナロジーの観点でみると日本教育がなぜ駄目なのかがよくわかる。知識の詰め込み教育によって左脳を飽和させ、右脳を全く鍛えるチャンスを与えないことで、左脳型、暗記型のロボットを量産している。右脳を使わないと抽象化スキルがつかず、知識が消化されないし、感性が育たない。また、与えた知識を応用して自分で創作する手段を与えず一方的に詰め込むことで応用力創作力を身につけるチャンスを逃すのである。もし仮に手っ取り早く論理的思考とひらめきの両方に強い人間を生み出そうと思ったら、芸術をたくさんみせたり物事の視点をたくさん考えさせることで右脳を鍛え、それを具体化する手段与えることで、数学、論理学の実践の場を与えるのがいいだろう。
 私自身は日本の理系出身者では珍しい右脳タイプで、普段は6段階の抽象度で思考するが、国内の左脳タイプに対して抽象度の高い本質的な話題を振ると理解されないことが多い。左脳タイプからみると、数学的な抽象度の高い思考をする人は、論点がクルクル変わるようにみえるのである。しかし、海外エリートの多くは自分の知る限りではほとんど例外なく右脳をバランスよく使うし、また、日本人でも海外経験が長い人は右脳での会話が成り立つようになっている。したがって、これは完全に日本の悪しき詰め込み教育による弊害であると断言できる。  余談だが、私は、数学、物理はゲーム開発で独学した。当時は技術情報もライブラリもなかったから、アルゴリズムは全て創意工夫で作った。小学生の頃に既にカードゲームを作るためにソートやら確率操作の理論を自作してた。こういう応用力は、暗記力を競う学校のテストの点には繋がらないが、専門で威力を発揮するのである。

 では、日本人は昔から右脳を使わなかったのかと言えば、美的感覚を重んじた江戸時代は明らかに右脳文化であるし、日本語も文字を絵として捉える右脳文化である。また、禅問答に見られるように、右脳を鍛えて思考の抽象度を高めて物事の本質を見極めるような試みはたくさんあったのである。こういったものを見直す必要があるだろう。

 モラル、教養、哲学については、昨今の日本文化の低俗化や退廃化を見れば、根本的に立て直さなければならないほどに悲惨な状況である。低俗やネガティブな感情に流されない意思は、モラル、教養、哲学からもたらされるように、人間の活動の根幹ともいえるものである。江戸時代の寺小屋では、先輩が後輩の模範となる行動をし、後輩はそれを『学ぶ(真似ぶ)』ことで、そういったことを伝承した。このように本来の学ぶ(真似ぶ)とは能動的な行為である。先輩が取るに足らない人間であれば誰からも『学ばれない』。一方、現在は教育という言葉で表されるように、教えて育てる、すなわち(生徒から見て)受動的な行為であり、そこには先輩の『質』を精査する仕組みは存在しない。江戸時代には人格的にも優れた優秀な人がみんなに認められて上に立ち、皆がそれを模範とするようなシステムになっていたのである。本来の学びというものは、ユダヤ人の「インサイドアウト(*3)」に似ていて、一旦自分の型を捨て、尊敬できる師範や先輩の真似をし、そしてそれを自分の中で昇華し、新しい自分の型を確立するのである。そしてより完全な型を確立した者が社会的に認められるように、人の質を高める仕組みがシステム化されていたのである。

 江戸時代には算額という老若男女問わずみんなで幾何学の問題を楽しむような習慣があったが、これは問題がデザイン的にも美しく見るだけで楽しめる。こういう活動を通して切磋琢磨していたのであろうが、こういったみんなで楽しく「学ぶ」という姿勢をみると、純粋に学問や創作を楽しんでいる姿がうかがえて、そこに現在のような年功序列というなギクシャクしたものを感じさせられない。本来、「学び」とは楽しく自発的で年齢を問わないものなのである。
 ちなみに、最近よくいわれる集合知は、この切磋琢磨とは全くの別物である。むしろ、対極ともいえる。DNAに例えると、基本的に学びとは自分自身の鍛錬(真理の発見)であり自身のDNAの構築である。完成したDNA同士がコラボレーションすれば新しい創造も生まれるが、いずれにせよ学びにおいてDNAを完成させることが重要なのである。集合知そのものを否定するわけではないが、集合知とは完成したDNAがいくつか存在している状態において始めて意味がでてくる。集合知の目的はDNAの質の向上ではなく拡散である。質の向上のスピードでは寄せ集めは所詮洗練された知識体系を持った一人に対抗することはできないだろう。

 このように江戸時代の学びには、ミネトロパーにとって重要な学びのエッセンスが詰まっている。また、もっと古の日本文化をみても、ミネトロパー的なものを多く見つけることができる。例えば、言霊信仰、穢れ思想、易(陰陽)の元々の意味を考えると、ポジティブフィードバック=言霊信仰、エントロピー=穢れ、弁証法=陰陽、というように置き換えることができる。ただし、本来の日本の思想がねじ曲げられて伝承されているから、これは現在理解されてる意味では通じない。例えば、本質的な問題が『穢れ』として扱われると、それ自体がタブーになり、そこに触れるだけで差別として凶弾されるようになる。そのような誤解を防ぐために、本稿では外来語で再定義しているが、ミネトロパーとしてのありようは明治以前の日本に存在し、再考すべきものなのである。